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耳をふさぐと心が落ち着く件 [感想]

ASDの子供が耳をふさぐというのはよくある話らしいが、私は、子供の時によく耳をふさいでいた覚えはない。自分を客観的に見れなくて、自分の癖に気づいていなかったと仮定しても、「耳ふさいじゃダメ」と言われた覚えが無いので本当だろう。

だが最近、不安な時に耳をふさぐと不思議なくらい落ち着くということに気づいた。本当は聴覚過敏があったんだろうか?「話しかけられても気づかない」「無視していると勘違いされて怒られる」タイプだったので、逆だと思っていたんだが。
ただ一つ言えることは、実家を出ると、自分の家では「呼ばれたのに気づかなくて怒られる」ということが無いので「安心して耳をふさげるようになった」ということだろうか。
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ASD者は人の悪意を理解できない、から考えたこと。 [ASDの哲学]

ASDの人は、他人の悪意を理解しにくく、詐欺などにあいやすいという。
私の場合、他人の悪意を理解しているか?といわれると、おそらく、他人の悪意でなされたことでも、悪意ではなかったのではないかという推測が先に立つ。例えば相手が嘘をついていても勘違いしたのだろうとか知らなかったのだろうなどと感じるし、変な態度を取られたとしても、この人は礼儀作法を知らないか、出来ない何らかの理由(障害とか)があるのだろう、と感じる。ということを書いていると一つ、思い出したことがある。

これは子供の時のことなのだが、他の子が悪意でわざと変な態度をしたのに、あの子は正しい態度が分からないからこうしているのだと思い込むということが結構あった。親や先生から見てそれは「いじめ」であるのに、自分も悪気なく変な態度をしているらしくそれで怒られることもあったので、相手もそういう子なのだろうと思ってそれを先生や親に熱弁したりもした。
その結果不思議なことに(?)、相手の子の感情を逆なですることも結構あったりした。余談だが、悪意で変なことをしたと言われるよりも、この人は「正しいことが出来ない人」だから変なことをするのだと言われる方が腹が立つというのは、ASDの視点から見ると不思議なことだと思うのだがどうだろうか。逆は分かる。悪気がないのに悪気があるように思われるのは嫌だというのは分かる。というかこっちは、無視しているわけではなく聞こえていないとか、適切な態度をしていないのに気づいていないとかからくる、ASDあるあるなのだが。

大きくなると、そういう、私に嫌なことをする「悪い子たち」に対してその真意を忖度しようとすることはなくなった。全く考え方が違う、心が通じないものだと気づいたからである。少年犯罪などで「心の闇」が取り沙汰されるのも、要は相手を理解できないが怖いからなんとか理解しようとするのだろうが、悪口を言う子も意地悪する子も「心が闇で出来ている変な存在」であった。

このことに限らず、私はむしろ子供の時の方がたくさん、人の気持ちを考えてきた。何かしなさいと言われた時に、そんなことをしたら相手が変に思うんじゃないか、などと、大人に訴えた記憶は数多い。だが、自分の気持ちを外挿するとまぁ当たらない。まぁ怒られる。「相手がこう言うんだからこう思っているんだろう、納得できないけど」と他人の気持ちは文章読解の問題になる。言葉に出さずに察してほしいタイプの人が相手だと、もはや人の気持ちを当てるのは暗記科目か神経衰弱かという状態になる。

大人になって、ASDの特徴などの本を読むと、「ASDの人はこう考える」「定型の人はこう考える」という知識がつくので、自分が察した相手の気持ちが合っているかどうか大体確かめることができる。本でもwebでも山ほどあるし、全く、いい時代になったものだ。
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出来てるかどうか分からないという問題 [ASDの哲学]

私がこのブログを始めたばかりの時の記事だが。
http://asd1chronicle.blog.so-net.ne.jp/2016-06-28
私が子供の頃(といっても就学前とかの話ではない)「頑張れば必ず出来る」的な言葉を、頑張っているから出来ているものだと思い込み、出来ていないと指摘されても、頑張ったから出来てるのに何言ってるんだと思っていたという話だ。
これは、単なるASDのおもしろ誤学習の例だと思っていたが、実は案外、私の子供の時の人間に対する不信感に根深く広く影響していた勘違いではなかったかと最近になって思い始めた。

私は子供の頃よく、「なんで嘘つくの?」と言っていた覚えがある。友達にしても、親にしても、先生にしても。それは、ASDの人は社交辞令が分からないからだと自分でも思っていたが、必ずしもそればかりではない。その例こそが、「頑張れば必ず出来る」である。
あぁなるほど、頑張っても出来ない場合があるのに、先生がそうやって言うのを嘘ついてると思ったのね、と普通の人は思うのだろうが、そうではなかった。「出来るという概念を理解してなかったから、出来るということは、他人に「出来たね」と言われることだった」のである。
それが、「なんで嘘つくの?」につながる理由は、「頑張れば必ず出来る」と言った当人が、私が頑張ったのに「出来てない」と言うのは嘘つきで意地悪だ、というわけである。頑張ったから出来ているはずだし、「出来たね」と言えば済む話なのにそれを頑なに拒むのは得体の知れない意地悪である。

ASDの気が少ない読者諸賢は、出来るという概念が分からんなんてあるんかいな、と思うかもしれないが、実際、集団行動で周りと違うことしてても気づかないなんてのは高校生になってもあった。周りに「おかしい」と言われるから気付くのだ。(ちなみに、出来ることと出来たと評価されることの違いはさすがに高校生では知っていたが)

先生や親はまぁまぁの確率で、私の感覚で言う「変な嘘」をつくのである。頑張れば必ず出来るみたいな精神論は、大人から子供にはよく言うものであるから、私が覚えていない類似の事例も多くあったろう。しかもその当人たちは、これは嘘ではないという。余計に信用ならない。いじめっ子や意地悪な先生がわざと嘘をつくなら話はわかるが、そうじゃない大人でも一定確率で嘘をつく。そういうもんだから、私はそれを受け流さなきゃならない。

だが子供はそれなりに学習するもので、頑張れば出来るって言うのに「出来てない」と言われ、頑張れば出来るというのが嘘ではないと教えられると、今度は、出来てるのに意地悪して出来てないと言っている、と思い始めるのだ。そうなると「出来ること」と「出来ると言われること」が違うということを理解するようになる。大人になるまでにこの種の誤学習が直っていたところをみると、回り道だがこれでも正しい認識には通じる道だったのだろう。
しかし、私のような種類のASDにとっては、哲学すること、言い換えれば自分の認識を疑い、思索することは、人生の必須科目だと感じた。周りの人間は変なことするけどそういうもんだろで終わっていたら、誤学習も放置で生きていたかもしれない。
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親に殴られたことが無いから喧嘩の加減が分からないという謎理論について [ASDの哲学]

前のエントリからずいぶん時間が経ってしまった。
以前に、やる気がないなら帰れという慣用句について書いたが、「こういうのよく聞くけど意味わからないからそのまま流してた」みたいなものはこれまでの短い人生でも実はかなりある。

私が子供の頃は、少年犯罪などが問題になっていた時代だったのもあり、「今の子たちは親に殴られたことがないから喧嘩の加減を知らない」というような言説をよく聞いていた。しかしこれ、なんか物凄い能力を前提にしているように思えるのだ。
例えば、決して褒められたことではないが、人を殴る経験が豊富だったり、そういう経験が豊富な先輩がやばくなったら止めてくれたりして、どのくらい殴ったら病院送りになるとかを経験的に分かっているというのは分かる。だが、自分が殴られた時に、相手がどのくらいの力で殴っているかなんてことを理解できるもんなのだろうか。逆に、虐待する親でもない限り手加減はしているのに、「殴るという行為は痛いだけで大丈夫」と思い込んで結局手加減が出来ないとかはありそうなんだが。

定型発達者だと、殴る側と殴られる側の立場を入れ替えて、手加減とかを学習する能力があるもんなんだろうか。相手の様子を見て、これはまずいと察する能力は理解できるのだが、それに関して、自分が殴られる経験が介在する余地があるとはどうしても思えなかった。
それとも、一周回って自閉的というか、共感性を極端に欠いた言葉なのだろうか。
定型発達者でも、自分が直接顔を合わせる人間以外は景色として認識している人はけっこう多いと思う。多かれ少なかれそうじゃなきゃ、紛争地のニュースとか飯食いながら見れないだろう。そういう顔も合わせたこともない景色のような他人だからこそ、「こういう悪いガキは同じような目に遭えばいい」と、「親の責任だろ」が合体して、なんか物凄い共感能力(?)を持っていることを前提とした雑な意見をぽーんと発してしまうのかもしれない。

それとも、子供の頃の私が感じていたように、意味はないけどみんなそう言うだろうからそう言っとく程度のものなんだろうか。

人の気持ちが分からないって、そんなの全人類にとって当たり前じゃないのか [誤学習]

ASDの特性で、人の気持ちが分からないと一般的に言われるが、私も例に漏れず、小学校の時、作者の気持ちを考える系の問題がことごとく苦手だった。高校くらいになると文章自体がより難解になるから、「他の人も誤答するようになる」ので目立たなくなったのだと思うが。
しかしだからといって、自分はどうして人の気持ちが分からないのだろうと思ったことはなかった。むしろ、「人の気持ちなど本人以外誰にとっても分からないものなのに何言ってるんだ?」という風に思っていた。だがこれも一面においては真理である。
なぜ人の気持ちは誰にも分からないと思うのかというと、他人も自分の気持ちを分かってくれないからである。厳密に言うと、分かってくれるときもあるが結構な確率で誤解される。だが、「そんなもんだろにんげんだもの」と思っていたので気にもかけなかった。

そもそも、「ASDの人は定型発達者の気持ちを分からないが、定型発達者はASDの人の気持ちが分かる」のなら、サポートさえあれば周りの人が上手に扱えるはずだが、定型発達の人もASDの人の気持ちが分からなくて困っているのが実情では無いだろうか。ASDの当人にしても、相手は自分の気持ちが分かるが、自分は相手の気持ちが分からないというなら、自分で障害として認識しやすいだろうが、当人にとってはどっちもどっちなのである。
だから、「人の気持ちが分からない障害」と言っても、ASDの当人はピンとこないんじゃなかろうか。この表現自体が、デフォルメされた絵みたいなもので、多少誤りを含んでいても定型発達者にASDを分かりやすく伝えるためのものなのかもしれないが。

AIの読解力とASDの空気読み能力 [ASDの哲学]

ちょっと古い記事だが。

AI研究者が問う ロボットは文章を読めない では子どもたちは「読めて」いるのか?
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yuasamakoto/20161114-00064079/

この内容は、要は東大合格を目的としたAI「東ロボくん」が国語が苦手なのはいいとしても、文章を理解せず、文字の羅列としか捉えていないAIよりも国語の点が取れない学生って文章読めてるのか、ということである。

しかしここで疑念が生じるんだが、この東ロボくんが今後進化を続けて、国語で満点取れるようになったら、AIは文章読めることになるんだろうか。実際、コンピュータの計算速度や記憶容量が爆発的に増えて、この世に存在するあらゆる文章を読み込んだら、出来るんじゃないかね。
AIが文章を読めないといわれるのは、おそらくは点数が理由ではなくて、やはり学習システムが人間の読解と異なるからなんだろう。それでいて、人間が文章を読めてないのかと疑われる理由は点数というのが興味深い。

ところで、国語の点数は良いけど、AIなどと同じ意味で、パターン暗記が上手なだけで読めているわけじゃない、という人間はいないんだろうか。というのも、人間の読解をパターン暗記で真似るAIは、定型発達者の妙な「空気を読んだ行動」の法則性を見出して覚えようとするASDにも似ているように思えたからである。
完璧に定型発達者の真似が出来るASDは、もはやASDとは認められないだろう。徹頭徹尾、子供だろうが大人だろうが、内面ではなく症状を見てASDを疑ってお医者さんに診せるからである。しかし、この世の全ての読解問題を間違えないAIは読解力があると認められるのだろうか。
おそらくだが、読解問題が苦手なうちは、AIはパターンをたくさん覚えているだけだから文章が読めているわけではないと言われ続けるだろうが、完璧に解けるようになったら、そんな話は雲散霧消して読解力があると認められると思う。しかし、カジュアルな哲学議論のネタとしては残り続けるだろう。哲学的ゾンビ(外面的には人間と同様に振る舞うが、内面的な経験を一切持たない)と似た話なのだが、哲学的ゾンビと異なり、AIのシステムが人間と違うのは誰の目にも明らかなので、何らかの違和感・不思議さは誰でも感じることができるからである。

結局のところ、ASDにしてもAIにしても、内面がどうなっているというのは、「出来ない理由を説明するため」であって、期待されることが出来るのであれば、内面がどうであろうと関係ない、ということなのだろう。自分が労せず出来ることが相手が出来ないということは不思議なことであるから、それには説明が必要なのである。内面というのは、その説明に納得するために必要なものであって、それ自体が求められているわけではないのではないか。

人間関係で誤作動を起こさない相手とは [ASDの哲学]

ASDの人は、とにかく人間関係が苦手である。私も例に漏れず、相手への接し方が分からなくてぎこちなくなってしまうことが結構ある。ひどい時は初めて触ったゲームのように、的を射ていない操作をおっかなびっくりやっている感じである。
しかし、誰が相手でも平等にそうなるというわけではない。確率的には少ないのだが、なぜか表情を読める相手や、気持ちが分かる相手がいる。ASD同士だと通じるという説もあるが、相手がASDっぽいと、逆に表情が動かないから読めないこともある。

要は、自分の気持ちを正直に表明するのが正しいと思っている人種相手だとほぼ大丈夫である。たまに本音を言う程度の人だと、たまに正直に物を言われても「???それなら早く言ってよ」となるが、常に自分の気持ちを表明するタイプは、一緒に居れば頼まなくてもその人の価値観も言ってくれるし好きなことも嫌なことも理由付きでペラペラ喋ってくれるので、その人に対する知識をつけることができる。
そういう人は表情も分かりやすい、というか、表情で自分の感情を表明するのが正しいと思っているから、無意識に分かりやすく表情を作っているのだろう。
そうなると、前情報がたっぷりあるので、「これはこの人好きそうだな」とか、「この人たぶんこれをこういう理由で嫌がるから、対処を事前に考えておこう」とかが出来るのである。ここまで出来るともはやASDとは思えないが、共感能力が無くてもデータベースからの類推で可能だから、別に不思議な話ではない。

この現象を分析すると、私は、相手が表明している表情や気持ちは読み取れる。だが一方で、相手が嫌だと表明してるから嫌なんだろう、嬉しいって表明してるから嬉しいんだろう、と考えるから、察してほしいと思うタイプが相手だと、何も表明してないから分かりません、となる。何も情報が得られないから相手の言葉などから無理やり情報を得て、その情報はノイズを無理やり増幅したようなもので的外れだから誤作動の原因になる、という感じだろうか。

その人が表明している心のありようこそが、その人の心である、と書くと、何か含蓄を含んだ文章に見えてくるが、これこそが「心の理論」が欠如した人間の考え方のような気もしないでもない。その一方で、いやいや、人が表明していない心まで推し量るのはそれは「妄想」であり、基本的に迷惑千万なのだ、という考えも浮かぶ。結論はまだ出ないので保留にしておく。

面白かった記事 [感想]

Yahooニュースでこんな記事を見た。京都新聞の記事。
「人格」より「行動」で善悪判断 自閉スペクトラム症の子
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161129-00000033-kyt-sctch

まぁ、そもそも、定型発達者とASDの差が微妙すぎるということもあるが、内容は要するに、この子はわがままな子だという前情報を与えた後に、その子が父親思いと思われる行動を取ったことを伝えた時、その子を良い子と判断するかというもの。ASDだとほとんどの子供が良い子と判断したそうだ。

これがASDの人が詐欺に遭いやすいということの解決に役立つのではないかというのが趣旨らしいが、私はむしろ、別の意味にとらえた。
これ、誰かが流した悪い噂を聞いた時とか、あの子は悪い子だから遊んじゃいけませんとか言われた時に影響されやすいかどうかの方に強い相関があるんじゃないか?ASDの子は、そういう悪いことを聞いたら、へーそうなんだと思うけど、良いことをしているのを見たら、やっぱいい子なんだ、と思う、ということだろう。
でも、これ、逆にしたらどうだろう。事前にこの子は思いやりがあっていい子だと伝えていて、それから自分勝手と思われる行動をしたことを伝えたら、悪い子と判断するのが普通じゃね?それでも本当は良い子で、何か深い思慮があってそうしたと判断したらそれこそ危ない気がする。

このように入れ替えると矛盾が起きてくるような、合理的に考えるとなんか変なんだけどみんなそうするよね、みたいなのがいかにも定型発達者っぽくて、これはこれで興味深い。だが、この記事のやつだけだと例数が少ないし差も微妙なのが惜しまれるところである。

定型発達者はこういう思考をする、って本当なのか? [ASDの哲学]

空飛ぶスパゲッティモンスター教というものがある。
いわば宗教のパロディで、世界はスパゲッティモンスターによって創造された、から始まり、世界の色々な現象を、スパゲッティモンスターの働きで説明している。
なんか楽しそう、というのは置いておいて、なぜこんな話をしたかというと…

定型発達者とASD者の違いを説明するための理屈って、スパゲッティモンスターの働きで世界の理を説明するのとどのくらいの距離があるのだろう、と時々考えるのだ。

自分はASDでは?と思い始めて病院に行ったり、ネットで調べたりすると、自分たちASDと異なり、定型発達者という生き物はこういう風に物事を考えている、ということを「勉強」する。例えば、定型発達者は言葉以外に顔の表情とかそういうものから情報を得ていて、こちらがこういう時に笑顔でいると定型発達者はこう受け取る、とか。
だが、その当の定型発達者は常日頃からそう考えて行動しているのだろうか?ASD者と定型発達者の間にお医者さんが入って、「ASDの人はこう思ってこうするけど、こうしたら定型発達の人はこういう理由でこう思うからこうしてね」と言ったら、お互いに「へ〜そういうもんなのか」というようなもんじゃないかと思うのだ。
これが例えば、定型発達者の人は魔法の国から来ていて妖精が見えて、その妖精の声をリアルタイムでみんな受信することを空気を読むと表現している、といっても、私が小学生の頃なら信じたな。この説と、上のお医者さんの説明の違いは、結局は多くの人が納得するかどうかという話のような気がするんだな。スパゲッティモンスターはもっと極端で、たぶん一般の宗教のように本気で信じている人はゼロに近いだろう。

ASDと定型発達の違いを説明する理論というのは、結局はこの2タイプがうまくやっていくための宗教なのではないか?もちろん、科学と宗教は違うということは百も承知だが、求められるのは、科学的に厳密な学説ではなく、社会でお互いに仲良く(?)やっていくための道具としての「よくできた説明」なのではないかと思ったり。

ASDよりADHDの広告の方がよく見かける理由について考えた

ネットを見ている時に出てくる広告は、基本的に検索している内容や、見ているWebページなどを解析して選ばれているのだろう。発達障害系はよく検索しているからそういう広告が出るのは当然として、なぜかASDではなくADHDが多い。私は、代表的な発達障害としてASDとADHDがある、ということだけは知っているが、ADHDについて特に詳しく検索はしていない。

そこで、2つの仮説を考えた。
1. そもそも人口がASD<ADHDなのでは?
これはどうやらそのようだ。下記のサイトがよくまとまっているが、他サイトの情報から見ても、ASDが人口の1〜1.5%、ADHDが2.5〜11%で、ADHDが多い。
http://www.teensmoon.com/pdd/data/

2. ADHDの方が治療法が確立していて、スポンサーが付きやすいのでは?
生半可な知識で治療法が確立されたかどうかを判断するのはよろしくないが、ADHDには薬物治療が有効であるというのは大きいのではないかと思う。対症療法とはいえ、ADHDの注意力の散漫さなどという中心的な症状に効くのはやはり大きい。ASDの場合は、パニックや鬱などの副次的な症状を抑えるもので、ASDの中心的な症状といえる、他人の心の動きを推測することが苦手とかそういうことについては、オキシトシンが有効とされているがまだ治験段階である。
そもそも、薬で改善されるのは人の表情などを読み取るセンサーの感度くらいであって、誤学習とかは自分でなんとかしなければならないし、身につけられなかった暗黙の了解のような常識も自分で覚えなきゃいけない。むしろそっちが大変なわけで、私自身の症状の改善のためには、ASDの薬は役立たないだろうと思っている。
しかし、子供の場合は別だ。誤学習を積み重ねる前なら十分に効果があるだろう。未来の子供達のために、ASDに有効な薬の開発には期待している。
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